島根県大田市大森町。世界遺産・石見銀山に抱かれた人口400人のこの町は、人口減少の中でのオーバーツーリズムという課題に立ち向かい、私たちに新たな地域のあり方を提示している。
その町づくりは全国でも注目を集めているが、実は行政だけではなく民間企業の力によるものも大きい。義肢装具の製作会社でありながら、半世紀近くにわたり、町の空き家の再生に取り組む「中村ブレイス」。そして、アパレル事業を中心に展開するライフスタイルブランド「石見銀山群言堂」を運営し、町の観光事業にも取り組む「石見銀山群言堂グループ」。業種のまったく異なる二社は、それぞれどんな思いで町づくりに力を注いでいるのだろうか。
朝日インテックとしても、地域への貢献は欠かすことができない。そこで今回は、中村ブレイスの中村宣郎氏(写真左)と、群言堂の観光事業を担う石見銀山生活観光研究所の松場忠氏(写真右)、二人のトップにその地に根ざす「民」ができる地域活性について聞いた。
INDEX
オーバーツーリズムをきっかけに
町本来の良さを見つめ直した胆力
中村ブレイス・石見銀山群言堂
本WEBサイト「WAYS」には、「道」という意味があります。まずはお二人が大森町とどのような道を歩んで来たかをお聞かせください。
中村 :
私が小学生の頃は大森小学校の全校児童が50名足らず、同級生は9名でした。現在はそこから半分以下の児童数になりましたが、今でもにぎやかな子どもたちの声を聞くことができます。
中学・高校で野球に熱中した後、地元を離れ東京の大学で経済学を専攻しました。進路を決めたときは家業を継ぐことは考えていませんでしたが、在学中に当社を取り上げていただいたさまざまな記事を見るにつけ、自分も携わりたいという思いが強くなっていきました。そして家業で必要な技術を修得するため専門学校へ進学し、再び大森町へ戻ることになりました。
松場 :
宣郎さんから中村ブレイスの記事についてお話がありましたが、先代(中村俊郎・現中村ブレイス会長)の思いがしっかりと次の代に伝わっていると思います。もし古民家再生をビジネスとして取り組んでいたとしたら、宣郎さんも大森町へ戻ろうと思わなかったかもしれませんよね。先代の「町を活性化したい」という純粋な気持ちが今につながっている気がします。
僕が大森町に初めて訪れたのは、妻(「石見銀山群言堂(以下「群言堂」)」創業者の松場大吉氏・松場登美氏のご子女)と付き合い始めた2004年ごろ。「こんな場所がまだ残っているのか」という驚きとともに、地域の一体感を感じました。群言堂の取り組みを知ったときも、こんな場所でも面白いことができる、何か起こせるんだと思いましたね。
大森町で仕事を始められた当時、町にどんな課題を感じましたか。
中村 : 私が大森町へ戻り、中村ブレイスに入社したのが2003年です。町では子どもの数がかなり減っていたので、その点は非常に寂しく感じましたね。すでに先代はかなりの数の古民家を再生していました。最初の頃はその活動をなかなか理解できず、それこそ止めようとしたことも。でも町には空き家が増え、このままでは再びゴーストタウン化するのではという危機感があったのは事実。私自身も、手を加えればまだまだ町は変わり、子どもたちのサポートになるのではないかと、ポジティブな気持ちは抱いていました。
松場 : 僕が大森町に移り住んだのが2012年。当時、長男の通える保育園が残るか無くなるかの瀬戸際でした。中村ブレイスさんが維持・運営を支えてくださったおかげで保育園は残り、少しずつ子どもたちが増えていったという経緯があります。長男が町のみなさんにかわいがっていただいている様子を見て、僕ら大人がこういう環境をつくっていかなければいけないと感じたことを覚えています。中村会長の古民家再生について、こんなに力を入れて大丈夫かと思ったこともありますが、空き家を住めるようにしておくことで、結果的に私の会社の社員も含め移住者を受け入れられたため、先見の明があったと思いますね。僕らの世代も未来のために「余白」をつくっておかなければいけません。
2007年には石見銀山が世界遺産に登録されました。このトピックスは町にどんな影響をもたらしましたか。
中村 : 私が大森町に戻ってきたタイミングは、世界遺産登録に向けてラストスパートといった時でもありました。中村ブレイスとしてもさまざまな形で支援していたことから、登録が決まったときには喜びもひとしお。あらためて石見銀山の良さを世界に認めていただき、精神的な支えになったのはプラス面ですね。一方で、世界遺産登録をきっかけにたくさんの方が大森町へ訪れるようになり、町のキャパシティを超えてしまい混乱した時期もあったのは事実だと思います。
松場 :
僕が結婚してこちらへ来た当時も、町は人であふれかえっていましたが、奈良の大仏のようなわかりやすいものがあるわけではないので、迎える側も訪れる側も「思っていたのとは違う」というミスマッチがお互いにあったのではないでしょうか。
ですので、大森町の人たちは「たくさん人が来ているのでこのままでいい」とはならなかった。オーバーツーリズム(※1)を経験して、それを抑制する動きをとったのはすごいことだなと思います。住民憲章(下記参照)をつくり、世界遺産に登録された町だからこそ、世界に誇れる暮らしぶりをしようと決意したのは、まさにこの町の胆力。ここまで中村会長や当社創業者の松場らが地域の方々とともに基盤をつくり、僕らの世代にバトンが渡されました。今「生活観光」と打ち出しているのも、自分たちが地域の良いところや、暮らしぶりを観せることこそ大切だと考えているからです。
(※1)訪問客の想定を超える増加などにより、観光地周辺の住民の生活や環境にマイナスの影響をもたらしたり、観光客の満足度を低下させたりする現象。
石見銀山 大森町住民憲章
このまちには暮らしがあります。
私たちの暮らしがあるからこそ 世界に誇れる良いまちなのです。
私たちはこのまちで暮らしながら人との絆と石見銀山を未来に引き継ぎます。
記
未来に向かって私たちは
一、歴史と遺跡、そして自然を守ります。
一、安心して暮らせる住みよいまちにします。
一、おだやかさと賑わいを両立させます。
平成十九年八月
多様性を受け入れながら
力にする歴史
町づくりは地域一体となる
次のステージへ
それぞれの立場で大森町の再生に取り組んでいらっしゃいますが、現在の活動をお聞かせください。
松場 :
群言堂には「根のある暮らし」─その土地に根付いた暮らし方や生き方を世の中に広めていこうというコンセプトがあります。それを実現するためには、自分たちが根ざしている本拠地が幸せな姿でなければ嘘になりますよね。地域が一体となって生き生きと暮らすために必要なものは何か。高齢化が進み、一次産業が難しい町の中で、観光業が一つの選択肢になるのではと考え、石見銀山生活観光研究所を立ち上げました。
最初の頃は「なぜ今さら観光なのか」という声も聞こえてきました。しかし観光という字は「国の光を観る」と書きますし、石見銀山や大森町はそれだけの光を観せられる地域です。手垢のついてしまった「観光」という言葉を再定義することで、この町を好きな人が増え、住みたいと思う人が増える。生活観光を起点として、町の持続可能性も担保されていくと考えています。
中村 :
当社では会長の思いを受け継ぎ、古民家再生を手がけてきました。再生された60軒以上の建物は民家だけではなく、文化施設や宿泊施設なども含まれます。たとえば2014年にできたオペラハウスは、もともと会長の幼少期に町にあった「大森座」という芝居小屋を復活させたもの。町に文化施設があれば、人が集い、町ににぎわいが生まれると考えたからです。
「ゆずりは」という宿泊施設は、当社に義肢装具の相談に来られる方に安心して過ごせる場所を提供したいという思いからつくったものですが、今は大森町に来られた方のための宿として、深く町の魅力にふれていただける場所となっています。
他にも、「町にパン屋さんがあったらいいのでは」ということから、オーナーが決まる前から整備を進めたり(笑)。その後、いろいろつながってドイツパンのお店が誕生したのですが、町にこんな施設があったら楽しいよね、便利だよねという発想が古民家再生の基本になっています。
松場さんは大森町のまちづくり協議会でも活動されています。
松場 :
このように大森町ではいろいろな面白いことが積み上がっているのですが、これから日本の社会では不安なことも増えてきますよね。一つは2040年問題(※2)。人口減少とともに消滅の危機を迎える地方自治体が半数近くに及ぶというデータもあります。今から18年後ということは普通に僕らも生きていますし、成人した自分の子どもに「ごめん、大森町を維持できない」というのは避けたいことです。
今までそれぞれの力でやっていた課題解決を、もう一つ段階をあげてやっておかなければ国の支援だって取り付けることができません。自分たちの町は自分たちで守るような活動を、垣根を越えてやることがこれから重要になるはずです。そこで、まちづくり協議会を経て2021年に「石見銀山みらいコンソーシアム」という事業体が立ち上がりました。最終的には地域一体型経営をめざし、町の機運を高めることから進めています。
(※2)少子高齢化により、65歳以上の人口がピークとなる2040年に想定される問題のこと。労働力不足、年金や医療費などの社会保障費の増大などが挙げられる。
これまでの活動の中で、強く印象に残っているエピソードはありますか。
中村 :
これまで群言堂のみなさんが、懇意にされているさまざまな素晴らしい人たちを町に呼んでくださり、当社の社員とともに、私たちが再生した古民家を使っていただいてきました。移住された方には家族がいて、お子さんが保育園や小学校に入ってすくすくと育っている。私たちだけでは何ともできなかったことですが、外から来た方が町民と一体となって町を元気にしている現状は何より嬉しいことです。
石見銀山は約400年にわたり銀が採掘された世界有数の鉱山です。江戸時代には幕府の天領として、全国からいろんな人たちが石見銀山に来て、生活を営んだ史実があります。外から来た人たちを受け入れながら町をつくっていった歴史は、今に通じるものがあるのではないでしょうか。
松場 : たしかに受容性がある町ですね。大森町の歴史をさかのぼると、中村ブレイスの中村会長や当社の松場大吉・登美よりも前に、この町の歴史的な価値を大切にしようと唱えた世代があったそうです。そこから大森町文化財保存会が結成され、さらに大森小学校に文化財愛護少年団が生まれ、文化財保存のための清掃活動などが始まりました。半世紀以上前の思いが脈々と受け継がれ、町並み保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)の選定、世界遺産の登録、住民憲章の制定へとつながっていったと知り、とても感動したことを覚えています。急に降って沸いた世界遺産登録だったら、町は今こんな状態ではなかったかもしれません。手前にこうした素地があったから、オーバーツーリズムに振り回されなかったのでしょう。
新しい世代にバトンを渡すため
挑戦する背中を見せ続けたい
古民家再生や生活観光の推進を通して、大森町にはどんな変化が訪れましたか。
中村 : 先ほども申し上げましたが、移住者が増えたことですね。自社の社員が移り住み、結婚をして家族が増えることがあれば、この町を好きになった人たちが移住することもある。再生された家を活用しながら新しい人たちが生活を営む姿は、昔からこの町を知る私たちにとって非常に喜ばしい変化です。
松場 : そうですね。移住者が増えて、これからますます面白くなっていくのではないでしょうか。大森町が抱えてきた課題は日本全国どこにでもあるものであり、最先端で立ち向かっていると思っています。普通だったら消滅していてもおかしくない経験をしながらも、幸せに生きる姿を見出せている。これができているのも、先駆者の方々の努力があったからなので、これから僕らならではのやり方を模索していかなければいけません。
中村 : 他の地域より少子高齢化が訪れたのが早かったですし、それを乗り越えるため試行錯誤したのも早かった。大森町が先行して幸せな姿を見せることができれば、同じ課題を抱える全国の自治体のモデルケースになるのではないでしょうか。
最後に大森町の展望と、ご自身の役割についてお聞かせください。
中村 : 人口が減り、保育園児が一人になった時代から今では28名になり、小学生も将来的には3、40人ぐらいに増える見込みです。とても良いことなのですが、このままこの状態で良しとしておれば再び減ってしまうのは目に見えています。今までのように他の地域から人を呼ぶのも方法ですが、ポテンシャルという意味では、大森町で育った子どもたちが戻ってきたいと思える環境を作ることが欠かせません。次の世代が同じような仕事、同じような活動をしなくても構いませんが、「大森町なら何か新しいことがやれそうだ」と思ってもらえるよう、挑戦する姿は見せ続けたいですね。私たちが受け取ったバトンを、戻ってきた彼らに渡すことで、町の新たな章がはじまると思っています。
松場 :
町づくりはロングスパンなんですよね。最近では地域一体型経営を推進するため、地域内の施設や交通機関で使える共通チケットを発行する実証実験にも取り組んでいます。こうした活動を通して、引き続きこの町を好きになってくれる人たち、一緒に町を良くしようとアクションしてくれる人たちを増やすことも必要です。
次の世代の頃には新たな課題が生まれているかもしれませんが、果敢に向き合ってもらえるように、僕らが挑戦する背中を見せ続けなければいけない。歴史の中で培われた受容性をもって、時代の変化にあわせながら課題に立ち向かった末に、自然に次の世代にバトンを渡すことができたらいいですね。
中村ブレイス株式会社
代表取締役社長
中村 宣郎NOBURO NAKAMURA
1977年島根県大田市大森町出身。日本大学経済学部在学中に早稲田医療専門学校義肢装具学科へ進学。2003年に家業である中村ブレイスに入社。自身も義肢装具士として患者一人ひとりに寄り添った義肢・装具を手がけ、2018年より代表取締役に。父である俊郎氏(現会長)が行ってきた古民家再生を引き継ぎ、大森町の文化施設の再興や移住者の呼び込みに力を注ぐ。
株式会社石見銀山群言堂グループ
代表取締役社長
松場 忠TADASHI MATSUBA
1984年佐賀県出身。文化服装学院シューズデザイン科を卒業後、靴メーカーに靴職人として従事。結婚を機に現在の石見銀山生活文化研究所に入社し、群言堂の飲食店事業を担当。2012年に大森町へ移住し、広報や営業マーケティング部門などを経て2022年より現職。石見銀山生活観光研究所代表取締役社長、石見銀山生活文化研究所取締役を兼任。