愛知県設楽町に本社を構える関谷醸造は、1864年の創業以来、160年以上にわたって日本酒を造り続けてきた。昭和の大恐慌を乗り越え、全国新酒鑑評会での金賞受賞を経て、現在は「蓬莱泉」「一念不動」をはじめとする多彩な商品展開を行う。さらに近年は、自社での酒米作りや飲食店経営、オーダーメイドの日本酒造りなど、新たな挑戦を重ねている。
七代目となる関谷社長は「変えてはいけないものはない」と語り、33歳という若さで杜氏(※)に就任した宮瀬氏は「基礎基本である引き算」を重視する。二人が語る酒造りへの想いからは、伝統を守りながら革新を続ける、その真摯な姿勢が見えてくる。
※杜氏(とうじ):日本酒の醸造において、酒造りの最高責任者。酛(もと)造りから瓶詰めまで、すべての工程を指揮し、日本酒の品質を決定づける重要な役割を担う。蔵人(くらびと)を指導しながら、その蔵独自の酒の味を守り育てていく、酒造りの職人。
INDEX
挑戦しながら進化する
老舗酒造のこれまでの歩み
関谷醸造株式会社

まずは蔵の歴史と、お二人がどのように関谷醸造に携わることになったのかお聞かせください。
関谷 :
創業は1864年、元治元年の江戸時代末期になります。初代・関谷武左衛門が、庄屋だった関谷家の婿養子となり、酒造りを始めたのが始まりです。その後、昭和の大恐慌という大きな危機を迎え、当時の4代目が組織を関谷酒店から関谷醸造に変更するなどして、再建を果たしました。このときに「蓬莱泉」という銘柄も生まれています。1989年には全国新酒鑑評会で金賞を受賞し、当時の日本酒ブームと相まって、蔵の大きな転機となりました。
私自身は七代目として蔵を継いでいますが、実は小さい頃から継ぐことを意識していたわけではありません。実際に継ぐと決めたのは、継ぐ人がいないということもありましたが、何より先代の酒造りの方向性と、自分が思い描いていた日本酒のイメージに乖離がなかったことが大きかったです。
宮瀬 : 私は20歳から酒造りを始めました。出身は愛知県蒲郡市の三谷町という温泉街で、漁師町でもあり、お祭りが盛んな地域です。子どもの頃から日本酒は身近な存在で、町内にあった酒蔵によく遊びに行っていました。その蔵で働いていた70歳を超える杜氏さんの姿に魅かれ、学生の頃から冬場はアルバイトとして手伝わせてもらい、やがて就職。そちらの蔵は残念ながら閉めることになったため、もう一軒の蔵でも経験を積み、その後、愛知県で酒造りをするなら関谷醸造しかないという思いで門を叩きました。入社から3年目で杜氏に就任することになり、当時は愛知県で最も若い杜氏だったと思います。
関谷醸造では「蓬莱泉」をはじめ、複数の銘柄を展開されていますが、それぞれの特徴についてお聞かせください。
宮瀬 :
本社蔵と吟醸工房では、異なる水質の湧水を使用しています。本社は超軟水、吟醸工房は軟水ながらも本社と比べるとやや硬めの水が特徴です。昔から、硬水は辛口のキリッとした男酒に、軟水は甘口の柔らかい女酒に向いていると言われてきました。私は吟醸工房で「一念不動」を担当していますが、この水質の個性を最大限に活かした酒造りを心がけています。
酒造りには「再現性」が非常に重要です。例えば「蓬莱泉」ブランドの「空」は、「空」らしい味わいでなければならず、「一念不動」も同様です。私が杜氏を引き継いだとき、「なぜ酒質を変えないんだ」というお客様がいれば、「なぜ酒質を変えたんだ」という方もいて、ブランドを守ることの難しさを実感しました。その中で、水質の特徴を活かしながら、一貫した味わいを追求しています。
関谷 : 当社では「一升瓶単価」という業界の指標で見ても、平均を大きく上回る付加価値の高い商品作りを心がけています。吟醸工房は規模こそ本社の10分の1ほどですが、少量生産の特性を活かしてオーダーメイドなど、新しい酒造りの可能性に挑戦しています。

近年は農業への参入もされているそうですね。どのようなきっかけからでしょうか。
関谷 :
農業への参入は、地域の課題がきっかけでした。それまで当社のお米の約6割を地元の設楽町の農家の方々が作ってくださっていたのですが、過疎化と高齢化が進み、田んぼがどんどん減っていく状況を目の当たりにしました。後継者となる若い世代の多くは都市部で働いており、農業を継ぐ可能性は低い。このままでは酒米の確保も難しくなると考え、私たちが農家になることを決めたんです。
最初は本当に右も左もわからない状態でしたが、地元の農家の方々に苗作りから教えていただきながら、少しずつ規模を拡大していきました。現在では41ヘクタールまで広がり、この地域では最大規模となっています。リタイアされる農家の方から「管理してくれてありがたい」という声をいただくことも多く、地域への貢献という意味でもやりがいを感じています。
宮瀬 : 杜氏の立場からすると、自社で米を作っているのは大きなメリットです。一般的に酒造りでは、毎年変わる米の出来不出来に対応しながら、安定した品質を保つことが求められます。自社米なら、苗作りの段階から品質をチェックでき、アグリ事業部と情報交換しながら、その年の米の特徴に合わせた酒造りができるんです。私が考える最高の酒米とは、実は「コントロールしやすい米」。その意味で、自社米というのは大きな強みになっています。

酒米作りだけではなく、現在は名古屋市西区の四間道に「SAKE BAR 圓谷」、中区の久屋大通公園に「糀MARUTANI」と、2軒の飲食店を展開されています。
関谷 :
自分たちの酒を、この料理と一緒に、この器で、この温度で飲んでほしい。そういった思いを伝えたくても、一般の飲食店では難しい。うちの酒だけ特別な提供方法をお願いするわけにもいきませんから。それなら自分たちで伝えるしかないと考え、2013年にSAKE BAR 圓谷をオープンしました。
四間道にある古い蔵をリノベーションした店舗は予約が取りにくいほどの人気となり、その後、久屋大通公園内にも2店舗目をオープン。最近ではインバウンドのお客様も増えており、時間帯によっては半数以上が海外の方というときもあります。
宮瀬 : 飲食店での経験は、私の酒造りの考え方も大きく変えてくれました。以前は、職人は蔵にこもって黙々とものづくりをするものだと思っていました。でも、お客様と接する中で「コト作り」の重要性を学びました。酒造りは搾って詰めて終わりではなく、お客様の口に入るまでが本来の仕事なんだと。吟醸工房でオーダーメイドの日本酒を造られたお客様が、飲食店に来店されることもあり、酒造りの裏話なども交えながら親睦を深める貴重な機会になっています。
「基礎基本」があっての「応用」
蔵を支えるものづくりの信念

お客様と一緒に酒造りを行うオーダーメイドは、特にユニークな取り組みですね。
関谷 :
オーダーメイドの酒造りは2003年頃から始まりました。当初は問屋さんや酒販店向けに1,000本単位での製造を想定していたのですが、なかなか需要がありませんでした。ある時、酒母を立てる小さなタンクを見ながら杜氏と話をしていて、「このタンクで100リットルくらいのお酒が造れるのでは」というアイデアが生まれたんです。そこから、お客様に実際の仕込み作業を体験していただきながら、オリジナルのお酒を造るというサービスをスタートさせました。
その後、テレビで取り上げていただいたこともあり、少しずつ広がっていきました。今では口コミで広がり、年間300本近いオーダーをいただくまでになっています。
宮瀬 : オーダーメイドの魅力は、お客様との出会いです。さまざまなアイデアをいただき、私たちも新しい可能性に気づかされます。何より、オーダーメイドのお客様は「ありがとう」と言ってくださる。本来、私たちが商品を売って「ありがとうございます」と言うべきところを、逆にお客様から感謝の言葉をいただける。それだけ思い入れを持って酒造りに参加してくださるんです。
お客様の自由な発想を形にできるのは、確かな技術があってこそですね。その土台となる考え方について、お聞かせください。
宮瀬 :
私の酒造りの基本は「引き算」です。よくワインと比較して例えるのですが、ワインはブドウの出来をそのまま活かすお酒です。ブドウの出来が良くても悪くても、それを活かして美味しいワインを造ろうとします。それぞれの土地の個性を活かすという考え方ですね。
一方、日本酒は米を削るところから始まります。良い米ができても、まず精米をして外側を削り落とす。雑味をなくすことで、目指す味わいに近づけていく。ワインとは対照的に、素材の個性をコントロールし、いかに均質で再現性のあるお酒を造るかが問われるんです。
関谷 : 最近では「教科書通り」という言葉が軽視されがちですが、私は非常に重要だと考えています。酒造りでは、まず基本に忠実に作業をすること。一つひとつの工程を丁寧にこなし、型を身につける。その型があるからこそ、応用やアレンジもできると思っています。


基礎を大切にされながら、常に新しいことに挑戦されているお二人ですが、その両立で難しさを感じることはありますか?
宮瀬 : 常に勉強だと思っています。新しい技術や知識を取り入れながら、伝統を守っていく難しさはあります。しかし、20代で第一世代の杜氏に師事し、基礎を叩き込まれた経験は、今の私の大きな財産になっています。
関谷 : 私は「変えてはいけないものはない」と考えていますが、それは基礎があってこその考え方です。例えば当社の看板商品「空」も、毎年少しずつアジャストしています。しかし、それは「空らしさ」を保ちながらの変化であって、ただ変えればいいというものではありません。お客様に喜んでいただける価値を追求しながら、基礎をしっかり守る。その両立が重要だと考えています。
「モノ消費」から「コト消費」へ
ファンを増やし
日本酒を次世代へつなぐ
近年、日本酒が海外からも注目を集め、伝統的な酒造りがユネスコ無形文化遺産にも登録されました。この流れをどのように感じていらっしゃいますか?
宮瀬 : 海外の方のアンテナの感度の高さには驚かされます。日本人は日本酒が身近すぎるせいか、まだ「モノ消費」の感覚が強いですが、海外の方は体験や価値そのものを楽しまれる。実際、当社のオーダーメイドでも、自分の人生の思い出を日本酒に込めたいといった発想で参加される外国の方もいらっしゃいます。ユネスコ登録の話も、実は蔵の中では誰も話題にしていなかったのですが、ワインに携わる方々や海外の友人から「おめでとう」という連絡をたくさんいただきました。外からの評価が、日本酒の新たな可能性を教えてくれているように感じます。
関谷 : 海外展開で最も重要なのは、その国でパートナーとなるディストリビューターとの出会いです。単に多くの銘柄を扱う大手ではなく、きちんと関谷醸造の酒を理解し、伝えてくれる方との出会いを大切にしています。最近は特に欧米で、レストランのスタッフ向けにトレーニングを行う機会も増えています。日本以上に熱心に日本酒を学ぼうとする姿勢にふれ、私たちも刺激を受けています。

本WEBサイトは「WAYS(信念・道)」という名前がつけられています。お二人の心にある信念、ゆずれない道は何でしょうか。
関谷 :
意外と気楽な性格で「なるようにしかならない」「明日は明日の風が吹く」という考えを持っています。外的な要因はあまりにも多く、いくら準備をしても想定外のことは起きます。コロナ禍がまさにそうでした。でも、そんな中でも商売のやり方はある。そうなったときに何がベストか、このピンチでしかできないことは何かを考える。そんな状況も楽しむぐらいの気持ちでいます。
そのために大切なのが、組織としてのバッファです。権限を分散し、私がいなくても会社が回るような体制を作る。究極の社長業は「神輿」だと思っています。神輿は担いでくれる時は担いでもらい、お祭りがない時は神社の隅に置いてある。担ぎ手たちが自分で進む方向を考えられるよう、人材を育てることが私の役割だと考えています。
宮瀬 : 私は「酒造りを楽しむ」という言葉を大切にしています。仕事を趣味にする、いやむしろゲームのように捉えようと。仕事として考えると、セミナーに行くことも本を読むことも必須のノルマになってしまう。でも好きになってしまえば、それが苦にならない。野球をやっている人がルールを覚え、技を磨くように、自然と知識が身についていく。次世代の職人に必要なのは、上手いか下手かではなく、好きか好きでないかだと思います。だからこそ私は率先して「楽しい」という話をします。興味を持てば自然と気になる、調べたくなる。そういう気持ちが大切なんです。毎年1年生の気持ちで酒造りのシーズンを迎え、常に新しい発見を楽しみにしています。
最後に、関谷醸造と日本酒の未来についてお聞かせください。
宮瀬 : 時代とともに日本酒への向き合い方も変化していきます。先ほどお話ししたように、これからは体験や価値を重視する「コト消費」がより重要になってくる。その流れの中で、伝統技術という軸がぶれないからこそ、新しい可能性も広がっていく。私は若い世代の杜氏として、その両立を追求していきたいと考えています。自分が第一世代の杜氏から学んだ知識や技術は、次の世代にもしっかりと伝えていきたい。常に自分が先を歩き続けることで、後輩たちの成長を促し、結果として会社の成長にも寄与できれば。そんな思いで、これからも酒造りを続けていきます。
関谷 : お酒という核は変えません。常にそれを真ん中に置きながら、そこから生まれるさまざまな可能性を追求していく。お酒とそれに付随する発酵技術を使って、お客様の生活をより豊かにできることを考えていきます。お客様の生活の場であったり、食卓を豊かにしたりするためのツールとして、お酒は存在します。それを楽しんでいただくために、私たちは製造業でありながら、サービス業としての視点も持ち続けたい。これからも基礎を大切にしながら、新しい挑戦を続けていきたいですね。

関谷醸造株式会社
代表取締役社長
関谷 健TAKESHI SEKIYA
1971年愛知県設楽町出身。東京農業大学農学部醸造学科卒業後、静岡県の肥料メーカーでの勤務、兵庫県での酒米研修、岐阜県の酒類卸での流通経験を経て、1998年に関谷醸造に入社。2010年、七代目として代表取締役に就任。地域の酒米確保を目的に自社での稲作を開始し、現在は41ヘクタールまで拡大。2013年には名古屋市内に「SAKE BAR 圓谷」を開業するなど、製造・販売の両面から日本酒文化の発信に尽力。愛知県酒造組合会長も務める。

関谷醸造株式会社
製造部部長/吟醸工房 杜氏
宮瀬 直也NAOYA MIYASE
1982年愛知県蒲郡市出身。温泉街で漁師町の三谷町で育ち、子供の頃から身近にあった日本酒への興味から、地元の酒蔵でアルバイトを経験。20歳で酒造りの道へ。第一世代の杜氏から薫陶を受けながら、2社での経験を経て2013年に関谷醸造に入社。2015年、33歳の若さで杜氏に就任。現在は吟醸工房の杜氏として「一念不動」ブランドを手掛け、伝統的な手作業にこだわった酒造りを実践。工房ではオーダーメイドの酒造りのサポートも行う。