激動の時代を迎え問われる、「大学は社会のために何ができるのか」。東海国立大学機構の松尾清一機構長が、“改革の担い手”として長年取り組んできた大きな課題でもある。松尾氏はこれまで、高い研究力でノーベル賞受賞者を多く輩出してきた名古屋大学において、医学部附属病院長、大学総長を歴任し、現在も岐阜大学とともに大学改革の真っ只中だ。
今回は、松尾清一機構長と朝日インテック代表取締役社長の宮田昌彦が、変革についての信念や未来について語り合った。
INDEX
他人の意見に
追従していた学生時代
米国留学が
マインドセットを変えた
SEIICHI MATSUO
「WAYS」という言葉が表わす「道」や「信念」。松尾機構長が、医学の道へと進まれたきっかけや腎臓内科を専門分野として選ばれた理由についてお聞かせください。
松尾 :
もともとは尊敬する物理の先生の影響で、京都大学の理学部を受験しました。しかし、1970年の安保闘争によって、同年の東京大学の入試が中止に。優秀な受験生が京都大学に集中し、自分の成績もありますが、不合格に終わりました。
そのことをきっかけに、人生についてさらに考えるようになったんですね。もっと人間について学びたいという気持ちが強くなったこともあり、医学部に志望を変更しました。名古屋大学への受験は、誰にも相談しませんでしたね。関西で生まれ育っていますが、まったく知らない土地に行きたいという思いもあり、親にも相談せずに受験しました。
宮田 :
松尾機構長が関西から名古屋へ進学されたのは、そういった理由からだと初めて知りました。時代背景が違っていたら、全く別の道に進まれていたかもしれませんね。私自身、名古屋大学というのは、地元の学生が多いという印象を持っていました。
では、専門分野を腎臓内科に決められたのは、どういった理由からですか。
松尾 : 医学部の先輩から強力なスカウトがあったからです。腎臓は悪化すると人工透析が必要になります。人工透析は、かつては受けられる人も限られていたほど高額な治療。しかし保険適用が認められ、今まで助けられなかった命を助けられるようになりました。最先端医療としての新しい学問へのおもしろさも感じましたね。「臨床でも研究でも命が助けられる」という先輩の言葉で、最終的に腎臓内科に決めました。この頃は主体性があまりなかったかもしれません。
理学から医学への道へ進み、まったく知らない土地での生活。ご自身の大学時代を振り返ると、どのような学生でしたか。
松尾 : 今振り返ると、自分探しの時間が長かったので、人間について学びたいという思いはあるものの、医学部への進学も漠然としたものでした。確固とした意志があったわけではないので、真面目でよく勉強する学生ではなかったですね。社会人がいる学外のフォークソングサークルで活動をしてはいましたが、「何をやりたいのか」という進むべき道を決めかねる、悶々としていた学生時代でした。主体性もなく進路を決めましたから、「外科へ進んで患者を助けたい」というような明確な意思を持つ友人がうらやましく思えました。
宮田 :
私の学生時代を振り返ってみると、父親がやっている事業をいつかは継ぐという意識は確かにありました。「進むべき分野は理系でなければいけない」、「リーダーシップをとれるようになるには」などと考えていましたね。実際、部活ではキャプテンを経験しました。
しかしいざ大学に入ると、時代がバブルだったこともあり、大学生活を謳歌しましたね。その後は大学院にも進んだため、4年生になってようやく研究室にこもる生活へ。電子工学科で人工知能やプログラミングを学び、はじめて勉強が面白いと実感しました。研究の楽しさを自分自身が体感したので、今も採用活動の際には、学生の研究活動などには注目しています。
松尾機構長は大学院修了後、アメリカ留学をされましたが、具体的にはどのような経験をされましたか。
松尾 :
自分を決定的に変えたのがアメリカ留学です。でも、留学自体は先輩に呼ばれて行ったものだったので、流されるまま向かった私は、何の準備もなく渡米してしまいました。当然、異国での社会に適応することだけでも精いっぱいになり、先輩が帰国してからは頼る人もいないため、生きていくのに必死でしたよ。考えられないことですが、自分がやりたい研究がここのラボではできないということを知ったのも、ニューヨークに行ってから。またもや悶々とした気持ちで過ごしながらも、研究ができない代わりに、論文を読むため図書館に通い詰める毎日を送っていました。
そうした日々を経て、ニューヨークの先生や同僚のバックアップもあり、バッファローのラボへ移ることができました。やっと自分のやりたかった研究に打ち込める環境を手に入れ、腎臓の炎症のメカニズムを明らかにする研究に没頭する生活に変わりました。
宮田 : ニューヨークでは、大変な留学生活を送られていたのですね。バッファローに移られてからはいかがでしたか。
松尾 :
バッファローでは、生涯の師と言える方との出会いもありました。イタリア出身の高名な学者でもある、ニューヨーク州立大学バッファロー校のギュセッペ・アンドレス先生。まさに腎炎の実験を専門とする先生で、国籍も年齢も経歴も関係なく、同じ研究者という常にフラットな状態で真摯にディスカッションをしてくれました。「自分も上に立つような人になったら、こういう人になりたい」と思えた大変素晴らしい方です。研究とはこんなに面白いものなのかと思えましたね。先生とのディスカッションのために勉強し、充実した毎日を過ごしました。
必死で乗り越え、自分の力で研究する場所を手に入れたという経験が、どこに行っても自分はやっていけるという自信につながりましたね。当時はわかりませんでしたが、別人のようになったと思います。相手に流されるままだった自分が、留学の3年間で一変しました。
アメリカから帰国後は、病院勤務を経て、病院内の改革に取り組まれました。
松尾 :
医療制度が大きく変わる時期でもあり、さまざまな改革に挑みました。1つ目は「卒後臨床研修制度の改革」です。当時、名古屋大学では医学部卒業後に、学生が自ら病院を決め全診療科を周り、所属する診療科や大学の教室を決めるという「名大方式」というスタイルをとっていました。それを、大学で責任を持つ「新名大方式」へ変革。この方式は、のちに厚生労働省が新医師臨床研修制度にも採り入れました。
2つ目は、「ナンバー内科体制から臓器別内科体制への再編(※1)」です。当時、循環器科だけで3つあり、同じ病気でも科によって診断方法や治療法が異なるという問題が起きていました。改革へ反対する声や摩擦も多くありましたが、全国でも早い時期に実現できたと思います。
ほかにも名古屋大学の形骸化されたシステムの改革をしました。もちろんすべてアゲインストではできません。目標や志をともにする同志がいたこと、そして時代の流れや背景も追い風になったからできたことです。留学するまでとはすっかりマインドセットが変わり、自分から積極的にチャレンジし改革を進めていました。その姿勢が認められ、教授就任から5年という比較的短い期間で病院長に就任することになりました。
(※1)第一・第二・第三内科と同じ科を複数に分けていた体制から、6つの専門分野講座(血液・腫瘍内科学、呼吸器内科学、循環器内科学、消化器内科学、腎臓内科学、糖尿病・内分泌内科学)へ再編成した。
宮田 : 組織のトップとして、「変える」のは本当に難しいこと。朝日インテックの場合は、変えるところと残すところが大切だと考えています。原点の「ものづくりのこだわり」はもちろん、「現場力」や「スピード」、「対応力」といった点も、DNAとして継承していかなければいけないと思っています。反対に、町工場からスタートした朝日インテックが大きく羽ばたくためには、時代の潮流をとらえて考え方を変えていかなければいけないことも多くあります。ガイドワイヤーにしても、今では高いシェアを占めていますが、現状に甘んじていてはいけません。時代の潮流からさらにその先を見据え、常に新しいテーマや分野に、我々の技術を活かしていけるようにチャレンジが必要です。トップが動かないと組織は変わりません。「今やらないといけない」と率先して動いていくことが大切だと考えています。
体制づくりからスタートした改革
社会や産業の発展に
寄与する大学へ
医学部附属病院の改革を進めるかたわら、名古屋大学でも大学改革の推進・強化に努められました。当時大学が抱えていた課題を教えてください。
松尾 :名古屋大学では、2001年の野依先生に始まり、2008年の下村先生、小林先生、益川先生、2014年の赤﨑先生、天野先生とノーベル賞の受賞が続きました。総長になったのは、大学が世界から注目をされていた2015年のことです。大学として良い時期ではありましたが、産学連携には危機感を感じていましたね。当時、毎年2億円を超える特許収入があり全国トップを誇っていましたが、のちに青色LEDの特許(赤﨑特許)が切れ、特許収入(文部科学省の「大学等における産学連携等実施状況について」から集計)が一挙に1位から28位に下落しました。名古屋大学の学術研究は注目される一方で、これだけ製造業が集積する地にありながら、産学連携の成績は他大学に比べて非常に悪かったのです。そのため社会実装につなげる支援を組織的に進めようと組織改革に着手。もともと研究力がある大学ですから、根本的に組織を変え、しっかりと機能する仕組みをつくれば、実績は後から付いてくると考えました。
結果はV字回復に成功し、評価されるまでに至りました。病院改革の経験があったことと一度下落して危機感をもったことが次へのバネになったのだと思います。
宮田 : ここ数年は名古屋大学のイメージがずいぶん変わってきていますが、さまざまな改革をしているからなのですね。我々も産学連携の大切さは痛感しており、現在は名古屋大学が進めているプログラムにも参画しています。朝日インテックが携わる医療機器産業の面から見ても、アメリカでは大学と企業が基礎研究をしっかりと進め、最終的には産業として成り立っていますが、日本はそのようなマッチングが弱いと感じています。医療機器産業には、許認可や保険といったことが関係してくるため、さらに「官」が連携に加わらないと難しい。我々の業界では「産・官・学」で解決していかないといけないことが多いのです。フラットな場で互いに意見を交わし、それぞれが連携してコンソーシアムを組めるのが理想ですね。
さまざまな立場から改革に尽力されていらっしゃいますが、改革を進めるうえで大切にしてきたことはありますか。
松尾 :自分探しから自主性に目覚めた頃は「for myself」、つまり自分のために研究を進めてきました。次は、「for the department」や「for the hospital」という自分の教室や学部のため、病院長になってからは病院のために何ができるのかを考えました。そして最終的には「for the public」になり、「病院や大学は社会のために何ができるのか」ということが思考の原点になりましたね。大学の知財を社会に還元し、その社会の進化が大学の発展にもつながっていくような仕組みでなければいけません。
指定国立大学に応募する際、東海地方をラストベルト(さびた工業地帯)にしないため、アカデミアの中心として貢献しなくてはいけないと考えました。強い危機感を持たなければ、ものづくりの企業が集まるこのエリアは、ラストベルトになる可能性がある。何のためにやるのか、どう社会に貢献していくのかを大学全体として考えていかなければいけないと思っています。
名古屋大学ではグローバル化の重要性を唱え、また特にアジアへ目を向けていらっしゃいます。なぜ「アジアとともに学ぶ」ということに注力されているのでしょうか。
松尾 :
名古屋大学の積み上げてきた「レガシー」がアジアにあることが理由の一つです。かつてソビエト連邦が崩壊した際に、名古屋大学はその衛星国であったアジア各国へ法整備や人材育成などの支援にいち早く行きました。二つ目が、アジアは人口・経済の両面からも世界水準で将来性のある地域であること。最後の理由は、地理的な近さ。時差があまりないことや文化や考え方の近さもあるかもしれません。
実際、名古屋大学の留学生の83%はアジア諸国から迎え入れています。アジアの経済力やポテンシャルは拡大を続けており、かつての“日本が教える”といった「途上国支援型交流」でのつき合い方から脱皮する必要があります。アジアと一緒に学び、それを世界へ発信していく「ハブ大学」を目指すことが重要です。アジア諸国とのネットワークを強固なものにし、「アジアとともに歩む」という姿勢が今求められています。
宮田 :
朝日インテックもタイやベトナム、フィリピンに生産拠点があります。95%以上の生産を行っているアジアなくしては成り立たない企業です。当社に入社するアジア諸国の学生やエンジニアは本当に優秀です。しっかりと勉強する方が多く語学も堪能、ポテンシャルの高さを感じます。かつての支援される側の国ではなくなっているという事実を認識しなければ、日本は置いて行かれるのではないでしょうか。
しかし、日本もおもてなしやものづくりに関するサービスの細やかさなど、負けてない部分も多くあります。そういった日本の価値を強化していく必要があるように感じますね。
東海国立大学機構が目指す
新しい大学モデルの構築
名古屋大学と岐阜大学の国立大学運営法人を統合した「東海国立大学機構」が2020年からスタートしました。あらためて設立の背景をお聞かせください。
松尾 :
運営交付金が減り大学経営が難しくなってきている時代に、統合により効率化を図りサバイバルしていくというとらえ方もありますが、私と岐阜大学の森脇学長(当時)は違う考えを持っていました。「国立大学は社会のためにあり、社会への貢献が責務である。そのためには大きなインパクトを持たないといけない」。国立大学の本当の意味をなさないと、その先の発展もありえません。
もともと基本的なポリシーとして、統合するなら積極的な姿勢をもつ大学を求めていました。これに賛同していただいたのが岐阜大学です。発展のために同じ志をもって進むことが大切で、根本は「for the public」なのです。実際はうまくいかないこともありますし、効率化となるにはまだ時間が必要なのが現状です。しかし進歩のためには必要なこと、それ以外発展の道はないという思いで進めています。同じポリシーと方向性で進めれば、より大きな貢献ができると思っています。
宮田 : 国立大学法人の統合を聞き、イノベーティブな取り組みだという印象を持ちました。国立大学の役割というものを強く考えられており、民間企業として風通しよくコラボレーションできるようになるのは大変ありがたいことです。知的財産一つとっても、大学によってまったく異なります。統合することによって、よりさまざまな取り組みができるという期待を持っています。ぜひこのまま突き進んでいただきたいですね。
常に前を向いて新しいことへ挑戦されている機構長ご自身が、人生を歩むうえで教訓とされていること、またこれからの夢があればお聞かせください。
松尾 : 「安定は動の中に在り」が私の座右の銘です。これまで自分の人生のなかで、考えた末にやめたことは数多くあります。でもそれらを振り返ると、ほとんどが後悔しているのです。やめてしまうと何も変わりません。しかし動いた場合は、失敗しても自分の見方が変化したり、次につながる動きが出てきたりと、必ず何かが生まれます。あらゆるものが日々変化していくなか、昔のままではいけません。私は、国立大学のキャンパスを将来コモンズにしたいと考えています。誰の所有物でもなく、人類共有の財産として、皆が利用できるものにしたい。それが私の夢です。
医療の分野に携わる朝日インテックの印象、また医学者のお一人として、医療の展望をお聞かせください。
松尾 : 朝日インテックにうかがった際に思いましたが、一つの誰にも真似ができないコアな技術があり、その技術をいろいろな分野に応用されている。技術は不変ですが、多様性があるユニークな企業だと思っています。また、その分野にとどまらず新しい領域にもチャレンジされているところも素晴らしいですね。さまざまな分野で朝日インテックのような会社が出てくると日本は安泰になりますよ。人生100年時代といわれている今、高齢者が皆必要な医療を受けられなくなる時代が懸念されています。医療を変えるためには、政治も必要です。それぞれの立場から、意見を伝えていくことが大切だと思います。
宮田 : 機構長の歩みや信念を通して、一つのことにこだわりすぎず、さまざまなことにチャレンジされている、またヒエラルキーに対するチャレンジ精神などをうかがい知ることができました。「安定は動の中に在り」、とても良い言葉ですね。「動いていかない限り安定はない」ということを勉強させていただきました。朝日インテックも医療がめざましく変化するなか、ロボティクス医療やスマート医療(※2)などの新しい領域への挑戦をたゆまず続け、緊張感をもって前へ進んでまいります。
(※2)ICTを活用した医療のこと。AIなどデジタル技術を活用した医療機器、電子カルテ、オンライン診察など。朝日インテックで開発を進める、センサー技術とガイドワイヤー技術を融合した製品もスマート医療の一つ。
学校法人東海国立大学機構
機構長
松尾 清一SEIICHI MATSUO
1976年名古屋大学医学部卒業後、米国ニューヨーク州立大学研究員等を経て、2002年に名古屋大学大学院医学研究科教授に就任。2007年名古屋大学医学部附属病院長、2009年名古屋大学副総長を歴任し、2012年には産学官連携推進本部長を兼任。2015年名古屋大学総長に就任し、組織改革の指針「NU MIRAI 2020」を掲げ大学改革を進めた。2020年4月には東海国立大学機構の初代機構長に就任。岐阜大学とともに新たな大学モデルを構築し、未来社会の創造に貢献することを目指している。
朝日インテック株式会社
代表取締役社長
宮田 昌彦MASAHIKO MIYATA
1992年関西大学大学院工学研究科電子工学専攻修了。1992年NTTデータ通信入社。1994年朝日インテック総括本部企画室長。経営企画部長、メディカル事業部長付兼生産技術部長、メディカル事業部長、専務取締役、代表取締役副社長を経て、2009年より現職。2010年中京大学大学院ビジネスイノベーション研究科(経営管理学)修士。